サッカー日本代表を応援するときの「がんばれ!日本」の「日本」とは何を意味しているのか?
最初に取り上げたのは、サッカー日本代表監督・森保一さんと山藤賢さんの『日本のために』。
出発点にしたのは、とても素朴な疑問でした。
なぜ、私たちはこんなにサッカー日本代表のことが気になるのだろう?
日本が勝つとうれしい。負けると悔しい。
では、そのとき私たちが口にしている「がんばれ!日本」の「日本」とは、いったい何を指しているのでしょうか。
そのことは次のように言い換えられるのではないでしょうか?
世界最高水準の選手たちが90分間、肉体をぶつけ合うワールドカップ。技術も身体能力も拮抗し、疲労困憊した最後の5分。
そのとき、選手をもう一歩走らせるものは何なのか。
森保一さんと山藤賢さんの『日本のために』では次のように書かれています。
そこでは、技術や戦術だけではなく、自分が育ってきた文化や、仲間、国、自分を何に捧げるのかという精神的なものが、最後に姿を現すのではないか。

そこから「日本人らしさ」について考えてみようと思いました。
しかし、参加者から返ってきたのは、必ずしもこちらが想定していた答えではありませんでした。
森保監督が日本人サポーターとの「共闘」という言葉を使うことと、愛国心とは違うように感じる、という意見(参加者KUさん)。
世界の代表チームに、さまざまなルーツを持つ選手が増えていることを指摘する意見(参加者Tさん)。
では、いまや「日本人」とはいったい誰を指すのか?
そんな問いが多く出ました。
力道山の話まで飛び出しました。
かつて日本中が「日本のヒーロー」として熱狂した力道山。しかし、その出自を知ったとき、人々の感情はどう動いたのか(参加者Uさん)。
早くも「日本」という言葉そのものが、揺らぎ始めます。
日本人的なメンタルの源流を『武士道』に探す
そこから、準備していた新渡戸稲造の『武士道』へ進みました。
キリスト教を基盤としない日本社会で、人々の道徳や倫理は何によって育まれてきたのか。
新渡戸はその問いに答えるため、自らの倫理観の源流をたどり、武士道を世界に向けて説明しました。
卑怯なことをしない。約束を守る。弱い者をいたわる。敵にも敬意を払う。そして、ときには集団のために自分を犠牲にする。
そのさらに奥には、仏教、神道、儒教など、いくつもの思想や精神文化が重なっています。
キリスト教という明確な宗教的バックボーンを持つ西洋の騎士道とは異なり、日本の武士道は、一つの宗教から生まれたものではない。
ここまでは、比較的、将口が考えていた道筋に沿って話が進みました。

ところが、参加者の心を強く捉えたのは、用意した「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」という七つの徳目以上に、もっと生々しいものでした。
切腹。介錯。日本刀。そして、死を受け入れる覚悟と静謐さ。
実際に日本刀を持ったことのある参加者からは、その想像以上の重さについての話が出ました(参加者Yさん)。
また、日本刀は片刃であり、相手を斬るだけでなく、峰打ちにすることもできる。そこに「殺すか、殺さないか」を最後に選ぶ文化を見ることができるのではないか、という意見も出ました(参加者Tさん)。
さらに、イチロー選手がバッターボックスでバットを立てる姿を、日本刀になぞらえる話まで出てきました(参加者KUさん)。
現代人にとっては遠いはずの、武士の死。
しかし、その遠さゆえでしょうか。
死を前にした覚悟と静けさ、そして一太刀で介錯する技術。それを支えた日本刀の完成度。残酷でありながら、美しくさえ見える切腹という儀式。
このあたりは、明らかに参加者の心に強く残ったように感じました。
「理想の愛国心」より難しかった、「日本人とは誰か」
『日本のために』と『武士道』から、次に「愛国心」について考えました。
ここで一つ、議論のたたき台を提示しました。
『武士道』について集めた資料をAIに読み込ませ、「現代において価値のある愛国心とは何か」を考えさせたものです。
出てきたのは、
「個人の幸福と重なる愛国心。そして、他人や他国を排除しない愛国心。」
という考え方でした。
ただ、あまりにも優等生的な答えではないか、とも思っていました。
実際、話し合いは「良い愛国心とは何か」という抽象論には収まりませんでした。
むしろ出てきたのは、
そもそも今の時代、「どこの国の人なのか」は何によって決まるのか?
という問いです。
国籍なのか。
民族なのか。
生まれた場所なのか。
使っている言葉なのか。
それとも、本人が自分をどこに属していると感じているかという、アイデンティティなのか。
さらには、サッカーという競技そのものに距離を置く意見も出ました。
サッカー文化の持つ暴力性、足で物を蹴ることへの文化的な抵抗感、野球との違い……。
将口が「サッカー → 日本 → 愛国心」という一本の線を引こうとすると、参加者はそこから、それぞれ別の方向へ歩き始めます。
この時点では、正直なところ、少し議論が噛み合わないようにも感じていました。

