次に取り上げた村上春樹『夏帆』では、話題の新刊が内包している、まったく違う問いを考えることになりました。
会の進行をしている時はまったく別問題を扱ったと思えた、「日本のために・武士道」と「夏帆」ですが、あとで、この2テーマはよく絡み合っていることに気づき、感動さえ感じました。
「現実」とは何か?
私たちが「現実」と呼んでいる世界は、本当に唯一の現実なのか。
そして、人間の心の中に存在する世界は、現実ではないのだろうか?
このことを問う、作品であるとしてまず作品を解説・分析しました。
『夏帆』には、大きく分けて三つの世界が描かれます。
◎絵本作家・夏帆が暮らしている、日常的な現実世界。
◎ありくいやジャガー、シロアリの女王などが登場する、無意識とも読める世界。
◎夏帆自身が創作する絵本『ミソラ』の世界。

つまり、一人の人間が、
日常的な現実/心の内側の世界/自分が創造した世界
を同時に生きているようにも見えるのです。
参加者からは、登場人物や出来事が十分に説明されず、最後まで回収されないことへの違和感も語られました。
一方で、それこそが村上春樹の作品なのではないか、という意見も出ました。
あらかじめプロットですべてを組み立て、最後に伏線をきれいに回収するというより、物語が「降りてくる」ように書かれているのではないか。
だから、説明されないものが残る。
そこもまた、村上作品の魅力であり、同時に読者を戸惑わせるところなのかもしれません。
『夏帆』は「母と娘の物語」なのか?
『夏帆』についてレビュー等でよく見られるのが、「母と娘の物語」として読む解釈です。
レビューの中には、母に取りついたシロアリの女王を倒すことを、ソリの合わなかった母と娘の「和解」の物語と読むものもありました。
しかし、この読書ミーティングでは、そこに明確な異論が出ました。
「私は、母と娘の話とは読まなかった」
言われてみれば、確かにそのようにも読める。
しかし、それだけの物語にしてしまってよいのだろうか。
人は物語を前にすると、「これはこういう話だ」と理解したくなります。
けれど、一つの分かりやすい答えを与えてしまった瞬間に、その答えからはみ出すものが、すべて余分なものになってしまう(参加者Kさん)。
『夏帆』には、それでは収まらないものがたくさん残されています。
村上春樹が46年間問い続けてきたこと
そこで、『夏帆』だけを見るのではなく、村上春樹の作品を時間軸の中に置いてみました。
1980年の「街と、その不確かな壁」。
1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。
2023年の『街とその不確かな壁』。
そして2026年の『夏帆』。
そこには形を変えながら、繰り返し現れる問いがあります。
**現実と非現実の境界はどこにあるのか。**
客観的に存在する世界だけが現実なのか。
人間の意識の中にある世界、記憶、夢、想像、創作された世界は、「現実ではない」と言い切れるのか。
1980年から2026年まで。
村上春樹は46年間、
「私たちが現実と呼んでいるものは、本当はどこにあるのだろう」
という問いを、形を変えながら問い続けているのではないか。
そんな読みを提示しました。
そう考えると、『夏帆』は突然現れた新しい作品ではなく、村上春樹が46年間問い続けてきたものの、現在地として見えてきます。
私たちは、いくつの「現実」を生きているのだろう
ここで、『夏帆』を読んでいない参加者にも問いかけました。
私たち自身は、本当に一つの現実だけを生きているのでしょうか。
仕事をしている自分。
家族といる自分。
過去の記憶の中にいる自分。
もう会うことのできない人と、心の中では今も一緒にいる自分。
夢や想像の中の自分。
それらはすべて、一人の人間の中に存在しています。
すると、『夏帆』を読んでいない人からも、
「私たちはいくつもの現実を生きている」という感覚は分かる
という反応がありました。
今回、『夏帆』について一番伝えたかったことは、ここだったのかもしれません。
「現実」は、一つではない。
そう考えてみると、村上春樹が描いてきた不思議な世界は、私たちの日常から、それほど遠いところにあるわけではないのかもしれません。

