AIが言葉をどれほど上手に操るようになっても、人間の言葉には、まだ別の役割がある
今回、時代や国境を越えて読み継がれてきたロングセラーとして取り上げたのは、一冊の本ではなく、谷川俊太郎の三つの詩でした。
『朝のリレー』
『春に』
『二十億光年の孤独』
前回の第51回読書ミーティングでは、外山滋比古の『思考の整理学』を取り上げ、「AIと人間」というテーマについて考えました。
AIは忘れない。人間は忘れる。
AIはすぐに答えを出す。人間は問題を寝かせる。
AIは整理する。人間は、ときには整理せず、忘れたり、捨てたりする。
一見すると欠点に思える人間の曖昧さが、実は新しい発想を生む力にもなっている。AIと比較することで、逆に人間の思考の魅力が見えてきました。
そこで今回は、もう一歩進めて、
絶対にAIが書けない言葉とは、どのようなものだろうか。
という問いを立てました。
その手がかりとして選んだのが、谷川俊太郎の詩です。
谷川俊太郎は、現代詩の深さを持ちながら、その言葉を教科書、絵本、翻訳、合唱曲、テレビCMにまで届けた、稀有な詩人です。
難解な思想や特別な言葉を使うのではなく、日常の言葉の音、リズム、揺れ、沈黙、ふいに訪れる切なさによって、子どもにも大人にも届く詩を書き続けました。
AIの言葉は、基本的に「意味」を整えようとします。
問いがあれば答え、混乱があれば分類し、感情があれば名前をつけ、世界を分かりやすく並べ替える。
しかし、谷川俊太郎の詩の言葉は、世界をすぐには整理しません。
言葉になる前のざわめき。
意味になる前の気配。
論理に回収される前の孤独や喜び。
それらを説明しきらず、生きたまま、揺らしたまま、私たちに手渡します。
SHOMAからは、三つの詩について、それぞれ「AIの言葉」と「詩人の言葉」を比較する資料を提示しました。
『朝のリレー』 AIは世界を同期するが、詩人は朝を受け渡す


谷川俊太郎の『朝のリレー』は、地球上のさまざまな場所に訪れる朝が、人から人へと手渡されていく詩です。
AIであれば、カムチャツカ、ニューヨーク、ローマ、東京の時刻や天気、交通、ニュースなどを、一瞬で同時に把握できるでしょう。
AIの世界では、世界各地の朝は、データとして同期されます。
しかし谷川俊太郎は、朝を「同時に処理される情報」としてではなく、誰かから誰かへ渡されるものとして描きました。
世界のどこかで誰かが眠り、別の場所で誰かが目を覚ます。
自分が眠っている間にも、見知らぬ誰かが朝を受け止めている。そして自分が目を覚ますときには、また別の誰かが眠りにつく。
そこには、会ったこともない人間同士が、ひとつの地球の上で生きているという、かすかな信頼があります。
AIは、世界をネットワークでつなぐ。
谷川俊太郎は、世界を朝でつなぐ。
この違いは、たいへん大きいのではないでしょうか。
読書ミーティングでは、KIさんが『朝のリレー』を朗読しました。
KIさんは、谷川俊太郎の詩は非常に個人的で感覚的なところから始まりながら、いつの間にか普遍的な世界へ広がっていくところが魅力だと話しました。
特に、
「カムチャツカの若者がキリンの夢を見ているとき」
という冒頭の言葉。
カムチャツカとキリンの間には、論理的なつながりはありません。しかし、この意外な組み合わせによって、遠い土地に暮らす見知らぬ若者の眠りが、突然、私たちの身近に感じられます。
AIは通常、意味のつながりや確率の高い表現を選ぼうとします。
谷川俊太郎の言葉は、意味が整う一歩手前で飛躍する。その飛躍が、読み手の想像力を動かし、詩の生命となっているのです。
『春に』 AIは感情を分類するが、詩人は名づけられない気持ちを残す


『春に』では、「この気もちはなんだろう」という問いが繰り返されます。
AIはこの気持ちを分析して、期待、不安、孤独、成長への戸惑い、思春期の高揚、季節による感情の変化など、いくつもの名前を挙げます。
けれども、この詩の元々が持つ美しさは、その気持ちを一つの言葉に分類できないところにあり
ます。
春は明るい。
でも、ただ楽しいわけではない。
胸がふくらむ。
でも、どこか苦しい。
誰かに会いたい。
けれど、誰に会いたいのかは分からない。
何かを叫びたい。
しかし、その声はまだ言葉にならない。
ここにあるのは、すでに言葉になった感情ではありません。言葉になる直前の、胸の奥の揺れです。
AIは、言葉として表されたものを分析することは得意です。しかし谷川俊太郎は、まだ言葉になっていない感情を見つめています。
感情は、正確に説明され、名前をつけられた瞬間に、少しだけ動きを止めてしまいます。
谷川俊太郎は、説明しきらないことで、その気持ちを生きたまま読者に渡します。
『春に』は合唱曲としても広く親しまれてきました。
それは、この詩が意味だけでなく、声に出したときのリズムや、息の動き、身体の感覚を持っているからでしょう。
詩を理解するということは、必ずしも意味を説明できることではありません。
声に出すこと。
歌うこと。
身体の中で響かせること。
そうすることで初めて届く言葉もあります。
『二十億光年の孤独』AIは宇宙を説明するが、詩人は宇宙の中の孤独を感じる


谷川俊太郎は1952年、第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行しました。
表題作には、火星人、万有引力、宇宙、二十億光年といった科学的、宇宙的な言葉が登場します。
AIに万有引力について尋ねれば、質量を持つ物体同士が互いに引き合う物理法則として説明するでしょう。
しかし谷川俊太郎は、
「万有引力とは/ひき合う孤独の力である」
と書きます。
科学的な説明としては正しくありません。
けれども、詩として読むと、不思議なほど深く納得させられます。
人と人は、完全には分かり合えない。
それぞれが孤独を抱えながら、それでも互いに引き合おうとする。
その力を、谷川俊太郎は万有引力と結びつけました。
さらに、二十億光年という途方もない宇宙の広がりを描いた詩は、最後に、一人の人間の「くしゃみ」に着地します。
宇宙論から生理現象へ。
壮大さから可笑しみへ。
宇宙の孤独から、一人の人間の身体へ。
論理的な文章であれば、あまりにも唐突な展開です。
しかし、その唐突さによって、宇宙は抽象的なものではなくなり、今ここにいる私たちの身体につながります。
AIは宇宙を説明できる。
しかし、宇宙の広さに圧倒され、その中にいる自分の小ささや寂しさを、思わずくしゃみとして感じることはできない。
この飛躍と可笑しみこそ、谷川俊太郎の言葉の、人間らしいところなのだと思います。
子どもの声や身体に届く、谷川俊太郎の言葉
KIさんは、自分の娘が小学生だった頃、学校に谷川俊太郎と作曲家の林光が来たときの思い出を話しました。
学校には「子どもたちに本物に触れさせる」という教育方針があり、親子で谷川俊太郎の朗読やトークを体験したそうです。
また、娘さんがモダンバレエで谷川俊太郎の詩を踊った経験も紹介しました。
谷川俊太郎の言葉は、意味を理解するためだけのものではありません。
声に出して読む。
歌う。
身体を動かす。
音楽や絵と組み合わせる。
そうした表現と、たいへん相性がよい言葉です。
絵本『もこ もこもこ』などにも見られるように、谷川俊太郎の言葉には、まだ複雑な意味を理解できない子どもにも届く音とリズムがあります。
それは、言葉が情報を伝える道具になる以前に、音や息、身体の運動だったことを思い出させてくれます。
広告、舞台、映像へと広がっていく詩
Oさんは、谷川俊太郎の詩が、広告や企業イベント、クリエイターとのコラボレーションに非常に向いていたのではないかと話しました。
実際に『朝のリレー』は、教科書だけでなく、テレビCMにも使われ、多くの人の記憶に残っています。
またOさんは、知人が谷川俊太郎の詩を「顕微鏡で読む」というイベントを手がけた話も紹介しました。
詩を顕微鏡で読む。
この言葉自体が、すでに谷川俊太郎的な飛躍を感じさせます。
谷川俊太郎の詩は、詩集の中だけで完結しません。
朗読、音楽、舞台、映像、広告、展示、絵本、教育など、さまざまな場所へ移植され、新しい表現と結びついていきます。
現代詩の深さを保ちながら、現代のメディアやクリエイティブの世界に開かれていたことも、谷川俊太郎が幅広い世代に読み継がれてきた理由の一つなのでしょう。

