第52回読書ミーティングで最初に取り上げたのは、五木寛之さんの『大河の一滴 最終章』です。
1998年に刊行された前作『大河の一滴』は、累計320万部を超える歴史的なベストセラーとなりました。
それから28年。90代になった五木寛之さんが、人生の最終章をどのように見つめているのか。前作と今回の『最終章』を比較しながら、参加者の皆さんと語り合いました。
静かに売れ続ける「ミリオンセラー・シリーズ」
前作『大河の一滴』は、人類全体の悠久の歩みを大河になぞらえ、私たち一人ひとりを、その流れを形づくる一滴として捉えた作品でした。
人は生を受け、それぞれの人生を生きたのち、再び大きな流れへと戻っていく。
そこには、運命や死を静かに受け入れる「諦念」や「無常観」がありました。「執着を手放す」「人生の流れに逆らわない」という考え方は、その後広がった断捨離や終活にも通じるものがあります。
前作が刊行された1990年代後半は、団塊世代が50代に入り、人生後半の意味を問い始めた時期でもありました。『大河の一滴』は、「老いをどう生きるか」という問いを、多くの読者に意識させた本だったのではないでしょうか。
一方、今回の『大河の一滴 最終章』では、五木さんの姿勢に大きな変化が見られます。
コロナ禍を経験し、自身も喉頭がんを患った五木さんは、90歳を超えた今、
「生きたくとも死んでいった人のためにも、一日でも長く生きたい」
と語ります。
前作の「どう終えるか」「どう諦めるか」という考え方から、「どう生き切るか」「最後の日まで何をするか」という方向へ。人生の流れを静かに受け入れるだけでなく、ときには流れに逆らってでも生きようとする、ダイナミックな転換です。
「孤独であることが」人生の基本
五木寛之さんは、長年にわたり「人生とは基本的に孤独である」という考えを語ってきました。
ここでいう孤独とは、単にひとりでいることや、寂しさを意味するものではありません。
仲間や家族がいても、自分のことを完全には理解してもらえない。親しい相手との間にも違和感があり、言葉が十分に通じないことがある。人間は根本のところでは、他者と完全に分かり合うことができない。
その事実を受け入れることが、五木さんのいう孤独です。
ただし『最終章』では、孤独を受け入れながらも、「誰かとつながっていたい」という思いが、以前よりも表に出ているように感じられます。
前作における「孤独を受け入れ、距離を置く」という姿勢から、「孤独を抱えたまま、誰かとつながる」方向へ。ここにも、五木さんの変化が表れています。
読みやすさの奥にある、五木寛之の強さ
Kさん(編集者)は、今回の読書ミーティングに向けて本を購入し、読み始めたそうです。
まだ途中までとのことでしたが、
「読みやすい」
「五木節のようなものがある」
と感想を話してくれました。
死や老い、孤独という難しいテーマを扱いながら、読者を遠ざけない柔らかさがある。思想書のように硬く論じるのではなく、自分の人生経験に根ざした言葉で語りかける。
この読みやすさこそが、『大河の一滴』が多くの人に読まれた理由の一つであり、五木寛之という作家の大きな強みなのでしょう。
医師を信じない? 五木寛之の独特な健康観
本書では、「心よりも身体が重要である」という五木さんの考え方も繰り返し語られています。
戦後の引き揚げをはじめとする数々の苦難を乗り越えることができたのは、強い精神力があったからではなく、身体が丈夫だったからだ、と五木さんは振り返ります。
読書ミーティングでは、歯磨きや洗髪、清潔、医療との距離の取り方など、五木さん独特の健康観についても話が及びました。
Oさん(元編集者)は、五木さんが歯磨きをあまりしない、髪をあまり洗わないといった話に対して、ご自身は朝一番に歯を磨くようになってから、風邪をひきにくくなった実感があると話しました。
もちろん、五木さんの健康法をそのまま受け入れているわけではありません。
大切なのは、五木さんが「医学的に正しい方法」に一律に従うのではなく、自分自身の身体感覚を確かめながら生きてきた人だ、という点です。
Yさん(編集プロダクション社長)も、がんを経験した友人の話を紹介しました。その友人は、医師から示された処置について自分の身体感覚をもとに考え、別の判断をした経験があったそうです。
そこからYさんは、
「大きな病気を経験すると、自分の身体は自分が一番よく知っている、という感覚が生まれるのではないか」
と話しました。
もちろん、これは一人ひとりの病状や治療方針によって異なる個人的な体験であり、一般化することはできません。
それでも、老いや病気と向き合うとき、どこまでを医師に委ね、どこから自分の身体感覚を信じるのかという問いは残ります。
『大河の一滴 最終章』は、死生観についての本であるだけでなく、「最後まで自分の身体を引き受けること」を考えさせる本でもあるようです。
「やらなければ」と「まだできない」の間にある終活
『大河の一滴』と『最終章』に共通するテーマとして、断捨離や終活、死への準備があります。
Yさんは、自分も断捨離や終活をしなければならないと思いながら、実際には何もできていないと話しました。
銀行口座の暗証番号や、葬儀社の連絡先などを書き残しておかなければと思う。しかし、なかなか手をつけられない。
その一方で、
「死が近づいたときには、何か啓示のようなものが訪れるのではないか」
とも語っていました。
「終活」という言葉は広く知られるようになりました。しかし、多くの人が「やらなければ」という気持ちと、「まだそこまで考えたくない」「今はできない」という気持ちの間で揺れているのではないでしょうか。
Yさんの発言からは、終活という言葉と、実際の人間の感情との間にあるズレが見えてきました。
無常だからこそ、努力して生きる
Hさん(弁護士)は、五木寛之さんについて、仏教的な「執着を手放す」という感覚を中心に置いている作家ではないかと話しました。
ただし、仏教の教義を分かりやすく解説するというより、無常や諦念の世界観を、自分の人生に引き寄せ、自分の言葉で語る作家なのではないか、という捉え方です。
さらにHさんは、夏川草介さんの小説『スピノザの診察室』に登場する考え方を紹介しました。
すべてが運命によって決まっているとしても、だから努力しなくてよいのではない。むしろ、運命があるからこそ、人は努力しなければならない。
この考え方は、『大河の一滴 最終章』を読むための重要な補助線になりました。
人生は無常であり、誰もが最終的には死に向かいます。
しかし、死ぬことが決まっているからといって、何もしなくてよいわけではありません。
無常だからこそ、今日という日を生きる。限られた時間だからこそ、最後まで自分の生を使い切る。
前作の「死を受け入れる思想」と、『最終章』の「最後まで生き切る思想」は、決して正反対のものではありません。
死を見つめ、死を受け入れたうえで、それでも生きる。
90代になった五木寛之さんがたどり着いたのは、そのような生き方なのかもしれません。

